2015年8月8日(土)
「道具を使って描く、おもしろ絵画」
(一般社団法人CWAJ福島支援プロジェクト/須賀川商工会議所青年部30周年記念事業)
参加してくれたお友だちへ
朝、商工会館のホールにやってきた日は、とても暑い日だったね。ブルーのシートがしかれて、なんだかへんてこりんな会場だった。幾人もの大人がいて、なかには知った人もいるけれど、知らない人も多い。けれどもお友だちはいっぱいいたね。時間になると、なにやら訳のわからない人が、これからやることを話してくれた。それが僕、先生だ。
ベニヤ板には、二つの面がある。(大人は「裏」と「表」って言うけれど、区別はないよ、って、言ってたな)。そっと、その二つの面にふれてみる。どんな感じがしただろう。
今度は「カッパ」が描かれた紙が配られて、先生がやったように絵を二つに折って、まず一つの面の上にその絵を置き、鉛筆でこすってみた。板の表面がこすり出されて浮かび上がる。半分のカッパの皮膚(ひふ)が生まれた。そしてベニヤをひっくり返し、もう一つの面で同じようにやってみた。カッパの体をよく見ると、ただ観察することだけでは知ることのできないベニヤ板の皮膚が紙の上に現れてきた。しかも二つの面の違いがよくわかったね。
今度はベニヤ板にクギやドライバーで傷をつけたり、ボンドを絵の具のように使って線を描いたり、布をはったりして、自分だけの皮膚をつくっていったね。
さあそれからがすごかった。
つくった皮膚の上にインクを伸ばしていった。赤、青、黄、緑、黒のインクだった。きみは何色を選んだのかな。ローラーでのばし終わったら、今度は床に置いて、その上に紙を乗せ、はだしになって懸命に足で踏んだね。手、足はもちろん、身体中にいろんな色がついていた。無我夢中につくることに向かっていったんだね、きみたちは。
幾枚もの皮膚を刷りあげたきみたちは、誇りのある、満足な顔をしていた。暑さで体はクタクタなのに、がんばったね。うれしい須賀川の一日だった。
――さあどのように手を動かせばよいのだろう。今までと勝手が違う。自分で何かを考え探さなければならない。それは今までのワークショップや、それこそ学校の図画工作の時間とも違う。一度先生がその日行うことを説明するけれど、そんなに丁寧ではなくて、面白そうにいろんな考え方と方法を並置して話していく。どれが正解なのだろうと考えていると、「正解はたくさんあるんだよ」と言われてしまう。さらに、「どれもが正解」という言葉が先生の口から飛び出してくる。いったいどう考えていけばいいのだろう。「こうして、ああして」と言ってくれなければ、どうしていいかわかんないよ。そんなことを思っていると、今度は「お友だちの作品を見て真似ることも大切だよ」とも言われる。そうか、ここは真似していいんだ。なんだかいつもと違うんだ。でも、体育の授業の時だって、先生の真似して、跳び箱、飛んだよな。国語だって先生が読んでいくところを真似て、声を出して読んだし、文字だって薄い文字をなぞって練習したっけ。ちょっと違うのは、友だちの作品を見て、よいと思ったところを真似ていいということかな。
「見る」ということを先生はよく言っている。観察するということかな。だって講座のはじまりのお話のとき、「きみの右手で左手をさわってごらん。その次に、今度は左手で右手をそうっとふれてごらん」なんて言うのだ。おかしいよね、自分の手でふれるんだから同じ感じがするに決まっていると思っていたんだよ。そしてバカにしながらやってみた。そしたら違う感じなんだ。不思議だし、面白かった。それが先生の「感じる」ことなんだって。こんなことも言っていた。「世界はいろんな皮膚でできている。それにふれてみると面白いよ」って。「裏と表ではなくて二つの異なる面」とも言っていた。「見る」ことって、観察することでもあり、ふれることでもあり、考えることでもあるんだ。
――こんな想いをこどもたちに持ってもらえたら、「あそびじゅつ」は大きな成果を得ることになると考えて、このような講座の構築を試みました。鑑賞することの愉を感じ、知ってもらおうと考えた訳ですが、そのはじまりがつくることでした。つくりながら生まれる多様な言葉、それらは作品をつくり鑑賞し考えていくさまざまな場面で、茫漠とした感情の揺れによって変化するさまざまな言葉となり、こどもの中で生まれたり消えたりしていきます。残った言葉が素敵な訳ではなく、そこで感じた体験が素敵なのでしょう。なぜならば、そこにはひとりだけの特別な眼差しが生まれているでしょうから。
講師: | 海老塚耕一(美術家、本学教授) |
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場所: | 須賀川市商工会館大ホール(福島県須賀川市) |
対象: | 小学1〜6年生 |
人数: | 40名 |