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『首里の馬』で第163回芥川賞を受賞 高山羽根子さんインタビュー


第160回の『居た場所』、第161回の『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』に続き、3回目のノミネートで第163回芥川龍之介賞を受賞した卒業生の高山羽根子さん(01年日本画卒)が、8月6日、八王子キャンパスを訪れ、建畠晢学長からお祝いの言葉と花束が贈られました。また、日本画専攻の武田 州左 教授、千々岩 修 准教授、元非常勤講師の坂本藍子先生、メディア芸術コースの港 千尋 教授ら、高山さんが在学時からゆかりのある先生方も駆けつけ、高山さんをお祝いされるとともに、思い出話に花を咲かせる一幕も。

当日のお祝いの様子はこちらから別ウィンドウリンク

芥川賞は本学初の快挙ということで、これを記念して高山さんにロングインタビューを行い、日本画から小説の世界に飛び込んだきっかけから、受賞作『首里の馬』について、また在学生のヒントになるようなエピソードまで、さまざまなお話をお聞きしました。

コロナ禍での受賞で本の役割を考えさせられた

――このたびは芥川賞受賞、おめでとうございます。八王子キャンパスに来られるのはひさしぶりですか?

「前回芥川賞候補にしていただいたあと、去年の入学式後のオリエンテーションに呼んでいただいた以来です。グラフィックデザイナーになられた方や画家になられた方に混じって、『日本画卒なんですけど文章を書いてます……』みたいな感じで(笑)、学生さんたちの前でOBトークをさせていただきました」

――先生方とお会いになられていかがでしたか?

「在学中は先輩だった方が今は先生と呼ばれていらっしゃって、私が全然関係ないことをしている間に、やっぱりみなさん作品をちゃんと描いて頑張っているんだなと思いましたね(笑)。今こんな状況ですから、授業のついでとかではなくて、わざわざ私のために来てくださった方もいらっしゃったので、なんだか申し訳ないなと思うと同時に、今回親族や大学時代同じアトリエだった人からも連絡をいただいたんですけど、『ここ最近暗いニュースばかりだったから、受賞のニュースがすごく嬉しかった』って言っていただいたんですよね」

――新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、会見や授賞式なども規模を縮小されている状況ですよね。

「そうなんです。候補になったときにも本来なら囲み取材があるんですが、それもZOOMでやったり、事前取材も全部オンラインでした。写真撮影も運営の日本文学振興会さんが撮った写真を各社でシェアするという状態で、受賞の会見も普段だったら担当編集者さん以外にも、他の編集者さんや広報の方もいらっしゃるんですが、そういう集まりもなかったんですよね。3回目のノミネートなので余計に今までとの違いを痛感しましたし、みなさん手探りだったと思うんですが、こんな状況でもなんとかやり遂げようという文学振興会さんや審査員の方たちの思いが伝わってきて、とてもありがたかったですね」

――従来どおりにできない寂しさはありますが、だからこそ運営の方々の心意気が伝わってきますよね。

「この困難で折れるわけにはいかないぞという強い気持ちを感じました。創作の中でも本は特にそうなんですけど、生きる/死ぬの状況になったら置いてけぼりになる場合がけっこうあって、こんな状況で本を読んでる暇なんてないと思う人は多いと思うんです。でも、読者の方が『家にいるから読んでみました』と言ってくださって……。家にいたからといって、こんなに疲れる状況で物語を最初から最後まで読むって大変なことだと私は思うので、読んで感想くださったり、喜んでくださったり、そういうことがすごく嬉しく感じました」

――現実で閉塞感を感じているからこそ、物語への欲求が高まっているのかもしれませんね。

「そうですね。今って、場所に縛られてるじゃないですか。海外にも行けないし、県外に行くのも、実家に帰るのも厳しいという状況の人たちがどこかに行くとなると、やっぱり物語の中という。私の作品には今いるところとは別のところに希求するような話が多いので、本のできることを改めて考えさせられました」

観察する目を鍛えられた多摩美時代

――美大を目指したきっかけを教えてください。

「ずっと美術部だったわけではなかったのですが、1990年代後半、多摩美は辻(惟雄)学長で、展示でよく観るようになっていた村上隆さんとか、日本画の新しいビジョンがすごく立ち並んだ時期だったと思うんですよ。ファインアートには進むつもりでしたが、高校のときに予備校で先生と話しているうちに、同じ絵を描くのであれば、油より日本画かなあと。今になってみればですけど、自分がいる場所の周囲を観察したり、そういったものを描くことのほうが、自分の内面を表現することより好きだったんだと思います」

――小説でも、人物の内面を深く掘り下げることよりも、風景やその舞台の歴史的背景など、周囲の様子を細かく描写することに重きを置かれているような印象を受けます。

「前にもその話を担当編集者さんとしていて、『すごくわかります』と言われたことがあって。たぶん私、自分自身にあまり興味がないんですよね(笑)。せっかく生きているんだから、周囲の驚異に目を向けたほうが楽しいという気持ちが10代の頃からあったんだろうなと。現代美術や日本画の展覧会を観に行ったりしてても、やっぱり内向的なものよりもセンス・オブ・ワンダー的なものに対しての興味のほうがすごく強かった気がします。定点カメラ的な描写を大事にしようとは思っていて、自分が立っているところや、まわりの世界をしっかり丁寧に描写すれば、直接自分の輪郭を描かなくても浮かび上がってくるはずだという謎の信念みたいなものがあって(笑)。けっこう突飛な話が多いので、その丁寧さはすごく大事にしないといけないなという気持ちはありますね」

――まわりの描写が細密だからこそ、登場人物の心が大きく動いた瞬間に、変化をより劇的に感じるのかもしれませんね。多摩美時代はどんな学生生活を送られていたのでしょうか。

「絵画棟の日本画のフロアが生活の中心でしたが、日本画の中でも私は共通教育の授業を受けていたほうだと思います。港千尋先生や椹木野衣先生、萩原朔美先生の授業や、写真論や表現論、人類学などをわりと好んで受けていて。せっかく入学したんだから、なるべく授業をいっぱい取って、4年間で吸収できるだけ吸収しようと思っていました。展示会やそのトークショーなどには10代から行っていたので、ファインアートに入った人の中ではどちらかというと頭でっかちなほうだったとは思うんです。いろいろな作品や映像は観ていましたが、絵をずっと描いてきたわけではない状態で入ってきたので。それでも絵はすごく楽しかったですし、もし自分が芸術学科や別のファインアートだったり、そもそも美大ではなくて普通に文学部だったりしたら、今こんなふうにはなっていなかっただろうという気はしていて。大学で今回お会いした先生方のお話を聞いたことや、授業を受けたということは、本当にめぐり合わせですけどとても大事なことで、寄り道だったとは全然思えないんですよね。たとえば10年前、35歳で賞をいただいていたとしたらまた違うとは思うんですけど、今の状態がたぶん私の人生の中でいちばん最短ルートだったんだろうなという気持ちはあります」

――先程「10代の頃から周囲を観察することが好きだった」とおっしゃっていましたが、その観察眼が多摩美でさらに養われたのでしょうね。

「そうですね。表現方法が絵だろうと文章だろうと、観察する目を鍛えるという、描写をする手前の状態はまったく同じだと思うんです。その手前の部分に関しては、多摩美なり創作で培ってきたものだと思っていて、まったく無駄ではなかったというか、何ひとつ捨てたものはないんじゃないかと思います」

――卒業後も絵を描かれていたと伺いました。

「はい。ただ、アトリエを持てていたわけではないので、家の中で描ける20号ぐらいがマックスでした。たまに膠と岩絵の具で日本画を描いていましたが、スケッチブックに水彩画を描くことが多いです。卒業後は社会人になったんですが、私たちは完全にロストジェネレーションと呼ばれる世代で、朝から夜中まで働くお仕事がすごく多かったので、なかなか自分のことをやるほどの余裕がなかったんじゃないかなと。本当にどちらかだったんですよ、会社員になって朝から晩まで働くか、アルバイトをしてお金を貯めて、アトリエを借りてコンペに出したり、画廊で個展をやるまで作品を続けるか。でも私は会社員になって、お芝居や美術展をたくさん観るとか、音楽フェスや地方の芸術祭やドキュメンタリー映画祭に行くとか、自分を豊かにする方向にどんどんシフトしていったんですが、今思えば大学の共通教育の延長みたいなもので、それが全部取材になっていたんですよね。なので、多摩美の4年間で揺るがない自分の地盤を決めることができたのは、ラッキーだったなと思っています」

創作文芸の公開講座が小説に向かうきっかけに

――大学時代はずっと絵を描かれていた高山さんが、小説の世界に飛び込もうと思ったきっかけはなんだったのでしょう。

「子どもの頃に文学少女だったとか、そういうわけでは全然なくて。少年少女文学全集を読んでいる程度だったのが、大学の頃にポール・オースターやサリンジャーに源流があるようなアメリカ文学を読むようになったんですけど、小説家を目指すというほどのことはしていなかったんですよね。いちばん大きなきっかけは、30代半ばに転職をして、9時5時の仕事をするようになって、退勤したらすぐ展示会やトークイベントに行ったりを積極的にするようになった頃に、早稲田大学の公開講座をいくつかとっていて、その中に創作文芸の講座があったんですよ。書き方を教わるというよりは、実作してみんなで読み合うという授業で、多摩美時代に本読みの仲間はほとんどいなかったけれど、文芸サークルに近いようなノリのものがそこで手に入ったんですよね。文章って最初から最後まで自分ひとりで、しかもノートパソコン1台でできるじゃないですか。それがやはり楽しかったんだと思います。そこで昔編集者をされていた先生に、『続けていけばまあ、なんとかなるんじゃない』って褒められたんですけど――初心者は褒めるものなんですよ、今思えば(笑)――それが続いたきっかけだったのかなと思います。そこで書いていた、最初は原稿用紙7枚ぐらいの小説とは言えない散文が15枚になり、30枚になり、50枚になり……みたいな感じで。多摩美にいるときからの癖みたいなもので、作品ができあがったらどこかに応募する、という発想が頭の中に染み付いているので、書いて何もしないでとっておくということがあまりなかったんですよね。50枚程度書けたらだいたいどこかの短編賞には応募できるので、最初にSFの短編賞に応募してみたら、佳作のようなものにひっかけてもらって活字になったんです。運良くたまたまが続いたというか、そういう意味では小説に向いていたのかもしれないですね」

――最初の応募で佳作になったら、それは何よりのモチベーションになりますよね。

「正賞ではないので賞金は出なかったんですけど、絵画のときに山程そんな目には遭っているというか、売れないけれど個展はしているというようなことはあったので、気にならなかったんですよね(笑)。しかも画材があるわけでもなくて、ほとんど元手ゼロみたいなものだったので、『活字になった、嬉しい』という気持ちで、書いたものが溜まるとまた1冊になって……年数はかかりましたけど、そうやってなんとなく進んでいった感じですね」

――学生時代からいろいろなものを観に行かれていたというエピソードもそうですが、社会人になっても大学の講座を受けたりと、フットワークの軽さが素晴らしいです。在学中にはバイクサークルのRACに所属されていたとお伺いしました。

「すごくバイクが好きだったわけではないんですが、旅が好きなんですよね。ヨーロッパの人たちの大規模な作品が観られると聞いて、シンガポールや韓国で開催されたビエンナーレに出かけたり……だからどこかに行くことは好きなんだろうなと思います」

――その刺激が創作の源にもなっているんでしょうね。

「観に行ったものが全部表現物じゃないですか。だから、表現することへのハードルがすごく低いんでしょうね。あまり観に行かないタイプの人もいらっしゃいますけど、私はなんでも観に行くほうなので、『ここを舞台にした話を書きたい』と思うこともありますし。その表現方法が私の場合、たまたまテキストだったというだけなんじゃないかなと」

ノイズの選び方に作家性が表れる

――受賞作『首里の馬』の舞台は沖縄で、主人公の未名子は遠く離れた地にいる回答者に向けてオンラインでクイズを出題するという仕事をするかたわら、町の資料館で土地の歴史をアーカイブする作業を行っています。そしてある台風の夜、自宅の庭に一頭の宮古馬が迷い込んできたことから未名子の生活が大きく変化していくという物語ですが、一見関係のないような点と点がラストに向けてつながっていきますよね。その盛り上がりと、謎解きのような快感にぞくぞくしながら読ませていただきました。

「ありがとうございます。デビュー当時から、どちらかというとライターズライター、本読みが好きな本という評価をいただいていて……それは褒め言葉だと勝手に思っているのですが(笑)。なので、今回は意外といろんな方に読んでいただいていて驚いているのですが、多摩美で表現活動をされている方にも何かしらの刺激になればいいな、と思いながら書いているところはありますね」

――不思議な話ですし、謎は残るのですが、現実に起きてもおかしくないようなリアルさがありますし、しっかりと心に刻まれる確かな部分も多くて、そのバランスがとても心地良く感じました。何かしら表現をされている方なら、きっと創作意欲を掻き立てられることと思います。

「そう思っていただけるとありがたいです。今は現実自体がすごくノイジーで、情報がしっかり届いてしまうので、ノイズを全部なくすというのはどうしても現実から離れることになってしまうんですよね。絵とか文章とか関係なく、そのノイズの選び方が表現者の腕の見せどころだと思うんです。たとえば『もの派』だったら、『ここにこれを置く必然』や『じゃあこれはどかそう』みたいなノイズのチョイスの仕方が結局作家性になっていくんだろうなという気はします。そこに、その作家さんの必然や切実がにじみ出てくるんじゃないかと」

――未名子はわりと閉じられた世界で生きていて、人と実際に会って会話するというよりも、配達に来る宅配業者や、クイズの回答者とオンラインでの交流が多いですが、奇しくも現実とリンクしてしまいましたね。

「入稿したのは2019年12月なんですけど、こんなことになるとは思っていなくて。もともと家にいて大丈夫な職種ではあるんですけど、それこそAmazonやウーバーイーツの人とインターホン越しにしかしゃべらない、みたいな状態が3~4ヶ月続いていたんですよね。なので、ここ1~2週間で急に引きずり出されているというか、急に光を浴びたモグラみたいな感じです(笑)」

――作中でも後半から未名子の世界がどんどん開けていきますが、その広がり方がとても鮮やかでわくわくしました。

「そうですね。レイヤーで閉じ込められていたものが吹き抜け的なところに出たり、ランドスケープがバーッと広がってまた収束していくような見晴らしがすごくよくなるシーンは、どの物語にも1回は作ろうと思っています」

――『オブジェクタム』でも、急速に世界が色づいていくようなシーンがありましたよね。

「あのシーンはみなさんがいろんなイメージでとってくださって、私の知らない映画のワンシーンみたいだと言ってくださる方もいたのですが、それは読み手の方が持っている解読コードを使って読んでくださっているんだと思うんですよね。小説って書いただけでは完結しなくて、読んで最終的に仕上がるものなので、そうやって引き寄せて読んでくださるのはすごく嬉しいです」

――描写もそうですし、作品に感じるカタルシスがどことなく絵画的、映像的なのは、美大で学ばれたからこそなのかもしれませんね。

「そうですね。いわゆる早稲田や慶應の文学部で創作文芸をやっていて、『すばる』や『新潮』の新人賞を獲る、というのとは違って、美大出身でスタートがSFだったりと土俵の外から来ているので、たぶん物珍しかったんだろうと思います(笑)。文体重視の世界とはまったく別のルートからやって来て、いきなり『これキレイじゃない?』って小説を出してきた、みたいな(笑)」

創作ノートは視覚的に整理

――『首里の馬』にはその名の通り馬が出てきますが、過去作にもたびたび動物が登場しますし、絵のモチーフも動物が多かったとお聞きしました。

「人間を含めて生き物自体基本的には好きなんですけど、卒業制作もワニみたいなものでしたし、動物が好きなんでしょうね。言葉はもちろん通じないし、全然違うルールや約束事で生きている生き物と人間が同じ場所にいるときに起こる空間の動きにすごく興味があって。犬や猫が出てきたり、拾った動物を逃してしまったり、動物園から動物を盗もうとしたり、そういう話をよく書きますね」

――今回の馬も何を考えているのかわからないし、おとなしいけれど大きいから怖さもあったりして、物語の重要なキーポイントになっていますよね。

「私はわりと馬って怖いんですよ。人のことをよく見るし、どう考えても人間より強いし、そういう生き物がちょっと怖くて。宮古島に行ったときに小さな馬が庭先にいたんですけど、存在しているのを教えようとしてるわけでもないのに、鼻息とかいろんな音がするし、とにかく圧がすごかったので、そのときに考えたことやあったことをメモしました」

――きちんと書き留めていらっしゃるんですね。

「パソコンで文章を打つ前にノートに書くことが多いんです。普通の作家さんはあまりされないかもしれないんですが、関係している事柄どうしを糸で結んだり、写真や地図をプリントアウトしたものとかをペタペタ貼って……海外ドラマとかで殺人鬼がよく壁にやっているようなことを(笑)。そのときに気づいたことや考えたことを四角い付箋に書きためているんですけど、それをノートに貼って、この場面にこれはいらないから、こっちに移動して……とかやったり、矢印を引っ張ってみたり、時間軸が重なっている事柄を考えるためにトレーシングペーパーの上から書いていったりして。20~50枚の短編は一気に書いちゃうんですけど、200枚とか長編の場合はそういうものをまず作って組み立てて、俯瞰したほうが整理できるんですよね。今回だったら資料館があって、馬の意味があって、クイズの問題を何種類か書いておいて、これを使おうとか……もちろん使わないフレーズもいっぱいあるんですけど、だいたいF0の見開きぐらいの紙にそういうことを書いて整理していますね。いきなりパソコンに向かっちゃうと、とっちらかっちゃうんですよ」

――素晴らしいアイディアをお伺いしました。その方法はどの表現にも使えそうですね。

「そうなんです。みなさん、やったらいいですよ(笑)」

変化していく東京の今を書き留めたい

――パンデミックが起こって現実がある意味SF的な状況になっていますが、この出来事が今後の創作にどんな影響を与えると思いますか?

「ものすごくフィジカルで単純な話でいうと、取材に行けないんですよ。こうなる前に取材で台湾に行ったので、それで物語を書きたいと思っていたのですが、取材の続きをしたくても行けなくなってしまって。それとは別に2019年ぐらいからずっと書きたいと思っていたことがあって、オリンピックをやる予定だった2020年に向けて、東京が今ものすごく変化しているんですね。街が変化するときって、書いておかないと前の景色を忘れちゃうんですよ。新しくビルが建つと前はなんだったっけ、そこの角ってなんの店だったっけってなるじゃないですか。だから2020年の東京の変化や、オリンピックとコロナのこと、それに伴う人の動きや変わっていくランドスケープをまずは書き留めないといけないんじゃないかなという、切実のようなものが生まれているんですよね」

――それこそ『首里の馬』のテーマのひとつでもあった、アーカイブを残していくということですよね。

「そうなんです。今回の『首里の馬』もそうですけど、赤瀬川原平さんのトマソンや今和次郎さんの考現学的なというか、『昔からあるけどこれはなんだろう?』みたいな、自分たちが真正面から見ている変化ではない変化にも焦点を当てて書いたものが必要なんじゃないかなという気持ちが今はありますね」

最後に、高山さんから多摩美生へのメッセージを動画でご紹介します。